土曜に何か書く6

1.忠臣蔵の真相についてお話します
私が小中学校生だった50~60年ほど前の時代でしたら年末年始のTV番組ではよく忠臣蔵が放送されていました。それは忠臣蔵クライマックスの赤穂浪士吉良邸討入りが旧暦で12月14日、新暦で言えば1月末であり時期的に近いことによるためでしょう。

昭和時代までの日本では人気のあった忠臣蔵の物語は下記の赤穂事件をもとに創作されたものです。そのため忠臣蔵のストーリーには史実とは異なる作り話が沢山あります。実際にはまさかと思うような根本的なところでフィクションがあるのです。なかなか意外性があって面白いので数回にわたってお話いたします。暇な方にはお読みいただいたら雑学にはなると思います。ちなみにタネ本は井沢元彦著『逆説の日本史14 文治政治と忠臣蔵の謎』(2011年小学館文庫)です。
下図は葛飾北斎作の 『仮名手本忠臣蔵』 十一段目 吉良邸討入りの浮世絵

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2.忠臣蔵の元となった赤穂事件とは
関連して起こった江戸時代の下記の二つの事件を指している。
◎ 殿中刃傷事件
元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩主の浅野 内匠頭(タクミノカミ)が殿中すなわち江戸城内で吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけたため切腹・御家断絶となった事件。
◎ 赤穂浪士吉良邸討ち入り事件
翌元禄15年12月14日夜から翌日にかけて、赤穂藩の主席家老だった大石 内蔵助(クラノスケ)をリーダーとする赤穂藩浪人47人が吉良邸を襲撃し、上野介を討取ったという事件。

3.忠臣蔵という題名になった理由
≪蔵の話ではないのになぜこの題名≫
私は小さいころ 『忠臣蔵』 という題名の意味が解らなかった。題名に「蔵」がつくので物語に蔵が出てくるかと思えば全然そんなことはないので 「なんでだろう?」 と常に思っていた。その理由は下記の通りだったのです。

≪江戸時代の芝居には規制があったので≫
忠臣蔵とはもともと人形浄瑠璃のタイトルであって、1748年初演 『仮名手本忠臣蔵』に由来している。
江戸時代は現実の事件をそのまま扱った芝居の上演は許されていなかった。そのため忠臣蔵の元となる赤穂事件を扱った芝居を上演しようと思っても吉良上野介や大石 内蔵助(クラノスケ)という名前を出せなかった。
それで脚本家はこれを室町時代の 『太平記』 の世界に置き換えた。ただし観客には赤穂事件のことと分かるように、下記のような色んなヒントとなる言葉をちりばめた。

# 登場人物名では吉良上野介や浅野内匠頭は 『太平記』 の登場人物名にならざるを得なかったが、大石内蔵助については大星由良之助(オオボシ ユラノスケ)で妻の名は 「お石」 とした。これで夫婦合わせて大石となる。
下図は幕末の頃に作られた忠臣蔵の浮世絵です。江戸時代であるので大星由良之助となっているが大石内蔵助のこと。吉良邸討ち入りの陣太鼓を打ち鳴らしている。
# 人形浄瑠璃題名 『仮名手本忠臣蔵』 の 「仮名手本」 とは 「いろは四十七文字 」 のことで赤穂浪士四十七士を暗示している。
# 『忠臣蔵』 とはその通り解釈すれば 「忠臣」 が 「蔵」 一杯つまったような芝居という意味であるが、この題名でリーダーの大石内蔵助を連想してもらおうとしている。

このようにして脚本家は 「この物語は本当は例の赤穂事件の話ですよ」 ということを観客に分かってもらおうとしている。
そして明治になってからは忠臣蔵の芝居が今のように浅野内匠頭とか大石内蔵助という実名を使って上演できるようになったが、題名の 『忠臣蔵』 は今さら変えるわけにいかなかったのでしょうそのまま現在に至るまで使われ続けています。
ちなみに私が 『忠臣蔵』 より前に 『〇〇蔵』 という名前の江戸時代の文芸作品がないか調べてみたら一つだけありました。井原西鶴作の浮世草子 『日本永代蔵』 (にっぽんえいたいぐら1688年)。この書名を真似たのかなと、ド素人の判断ですが思っております。

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