この“合一会トークルーム”の1/8付No.454とNo.455の書き込みで府大敷地内で「仮設体育館が建設中」で「旧短期大学校舎が撤去工事中」の旨をお伝えしました。
それが今はどうなっているかといいますと…。
運動場の南西隅には写真のような仮設の体育館が建っておりました。背の高い建物ですが平屋です。内部は天井が高く、床はちゃんと体育館仕様の板張りで、バスケットコート1面が取れます。
昔からある大きな体育館はまだ建っておりました。しかしやがては1万人規模の巨大アリーナに建て替わるのでしょうかね。


Re: 府大風景の変化元女子短期大学であった建物はどうなったのでしょう?
といっても女子短期大学部がなくなってから入学されたOBの方にはどの建物を指しているか分からないですね。体育館の東に、東西に長い3階建ての建物が「三」の字のように3棟並んでいました。そのうちの真ん中の建物です。
下の写真は体育館の東から写したものです。真ん中の建物はなくなって更地になっています。中央奥の方に写っているのが体育館です。C’77卒 石田事務局長
2022/05/22(Sun) 09:32 No.479
Re: 府大風景の変化こちらの写真は体育館の北東角から南東の向きに写したものです。
このように府大の風景も巨大アリーナ建設に向けてこの何年かで大きく変わっていくのでしょうね。C’77卒 石田事務局長
2022/05/22(Sun) 09:36 No.480
下表(クリックして拡大してご覧になってください)の通りで、単年度収支は67,578円(505,002円-437,424円)の黒字です。
前年度からの繰越金が407,108円でしたので、来年度への繰越金は67,578円増えて
474,686円となりました。
《事務局長よりのコメント》
一昨年秋発行の合一会報で 「コロナ禍のために新歓が出来ず、団員数が23名に激減で合唱団存続の危機!」 と訴えました。
すると合一会費・寄付金の振込額が通常年は25万円程度が下表収入額の通り約50万円と倍増しました。収入超過した25万円は現役支援のためと判断されますので、下表の通り254,000円を“現役特別支援”として支出しました。


6月に現役ジョイコンのお知らせと一緒にお送りする合一会報の準備をしております。今回から会報掲載の会員名称の表現を変えることとしました。
今までは合一会内部で会員のお名前を掲載するときは、例えば私なら「C25石田晴彦」と出身学科の略称と卒業回を併記しておりました。
学科についてはかなり名称変更や新設もあり2000年卒の人までは従来通りのアルファベット一文字にしておいて、2001年卒からは学科名称のうち一文字を取って略称としております。例えば森林科学科なら「林」、公共政策学科なら「公」という風に。
今回改めたのは卒業回の方です。1953年卒業が第1回で1977年卒の私なら第25回という風になっております。それが今年卒業となると第70回です。ここまで数字が増えると全くピンときません。それで卒業回ではなく卒業年で標記することにしました。
過去の会員もさかのぼって表示を変更して、例えば私でしたら「C'77卒 石田晴彦」という風にしました。
今年卒団の福祉社会学科の人なら「福'22卒 府大花子」という感じです。どうぞよろしくお願いいたします。


コロナ禍のせいもあり一時は20名台まで団員数が減った現役合唱団。去年の定演時点では35名まで盛り返し、今年の新歓では努力次第では50名台も決して夢ではないのです。
今年の現役の新歓奮闘ぶりを京府大合唱団ツイッターで追ってみました。
以下、ツイッター掲載の合唱団イベント宣伝画像を掲載しますがどれも立派によく出来ていて驚きです。
× × × × ×
4月5日(火)卒業式前日の学科ガイダンスの日
BOX前にて生活相談会。学業や下宿の相談などなんでもオッケー、ということで軽食も用意して。


Re: 現役たちの新歓奮闘ぶり4月6日(水)入学式当日
今年もコロナのため入学式での合唱団の学歌演奏はありませんでした。
その代わりに式後に練習場でウェルカムコンサートを開催しました。C′77卒 石田事務局長
2022/04/23(Sat) 08:34 No.471
Re: 現役たちの新歓奮闘ぶり4月7日(木)・8日(金)・11日(月)・13日(水) 練習体験C′77卒 石田事務局長
2022/04/23(Sat) 08:36 No.472
Re: 現役たちの新歓奮闘ぶり4月10日(日) レクレーション企画で清水寺・八坂神社散策C′77卒 石田事務局長
2022/04/23(Sat) 08:37 No.473
Re: 現役たちの新歓奮闘ぶり4月17日(日) 最後の新歓イベント、金閣寺/動物園観光C′77卒 石田事務局長
2022/04/23(Sat) 08:39 No.474
Re: 現役たちの新歓奮闘ぶり4月20日(水)ボイトレによる声分け
× × × × ×
以上入学式前日の5日から20日にかけての現役たちの新歓奮闘ぶりをイベント宣伝画像で見てきました。
昨日合一会係のホワちゃんに聞いたところ現在の入団者10名とのこと。これからあと何人まで増えるか楽しみです。C′77卒 石田事務局長
2022/04/23(Sat) 08:42 No.475
いつも自宅のパソコンでこのHPに書き込んでいたのですが[システム障害]を起こし、専門業者に渡して修理してもらっています。来週には手元に帰って来る予定。データのバックアップをしていなかったのですが、一部データが消える可能性もあるそうです。かなり不安です。


Re: パソコン修理中私のパソコンはたまたま近所にあったパソコンサポート業者に復旧してもらいました。
ウィルス感染していたそうです。今まで感染したことがなかったので油断していたのがいけなかった。
私のパソコンには、何より貴重な合一会のいろんなデータを記憶させているのですが、データは回復して一安心でした。
今後はこんなことの起きないように“One Drive”に文書をすべて登録させておきました。このような無料のサービス(5ギガまでですが)は大変ありがたいです。C′77卒 石田事務局長
2022/04/02(Sat) 06:29 No.469
府立大学に付属高校開設の検討
先週の京都新聞の記事です
Re: 府大付属高校藤山先輩京府大OBにとって気になるニュース有難うございました。
京府大に付属高校を設置する件で、既存の府立高校を付属高校にするとのこと。それでは具体的にどの府立高校が京府大付属校になるのか?それに関心を示した記事がありました。
http://www.kaisei-group.co.jp/nyushiblog/highschool/39355.html
府大の近所では洛北高校か鴨沂高校が候補になりそうですが、洛北高校は付属中学があるのでダメかなと言いつつ、ひょっとしての可能性はあるとのこと。
どうなることでしょうね。C’77卒石田(事務局長)
2022/03/03(Thu) 05:51 No.467
先週は若い会員さんの逝去について触れました。もう一件事務局長として気になった逝去報告があります。
合一会費を振込まれましたら、翌日にはゆうちょ銀行から通知があり、その振込書の画像はインターネットで見ることが出来ます。先月のことですが、振り込まれたという通知を受けたのでその振込書画像を見てみました。
振込人は会員本人ではなくその奥様でした。振込用紙にはS35年の卒業年次と本人氏名が記されており、 「令和3年10月28日逝去 永らくお世話になり有難うございました」と書かれていました。振込額は1万円でした。
振込用紙と合一会報は去年の10月15日発送で亡くなられる2週間前頃に着いていたことになります。同期の方のお話では、ご本人は数年前から徐々に衰弱されていたそうです。ですからこれは多分寝た切りになられたご本人のご遺志によって奥様が振り込んで下さったものでしょう。
故人関係の死後処理を色々と済まされて落ち着いたところで振り込んで下さったと思われます。故人とその奥様に対して事務局長として何とも頭が下がる思いがしました。
ご本人は、記念すべき第1回演奏会の年に執行回生だった方で、その当時の方の合一会に対する思い入れはそれは大きなものだったのでしょう。これまでも会費振込に併せてご寄付もたくさんいただいておりました。
ご冥福をお祈りいたします。


合一会事務局をしていると会員の異動について連絡をいただきます。住所変更の他に会員の家族・友人からの訃報も受けます。
初夏に発行の会報の訃報欄に掲載することになりますが、先月にかなり若い会員さんの訃報を受けました。その方は12年前の卒団ですから30歳代半ばでしょう。当時の定演パンフを見るとアルトのPLをされていました。
福祉社会学科卒で高校福祉科教員でしたが、卵巣がんで手術するも転移があり治療できず亡くなられたとのこと。4歳の娘さんを残して…。この報告を受けて色々と思ってしまいます。
# 30歳台の若さでしかも幼い娘さんを残して先立たれて本当に心残りだったことでしょう。
# 残されたご家族は父子家庭となられます。母親を亡くした幼い娘さんは本当に可哀そうですし、お連れ合いの方についてはこれから父親一人で娘さんを育てていくということになればどれほど大変なことか。私も娘を持つ父親ですからどうしてもそう思ってしまいます。特に思春期になった娘は父親の手にとてもおえないこともあると経験上思います。
# ガン患者となられたご本人さんは、つらい日々だったと思います。おそらく体調不良か何かで病院で検査を受けられ、結果はまさかのガン告知。結婚して可愛い娘を授かってそれまで幸せな家族生活を送っていたのに突然のガン告知です。その時点から近い将来の死を常に意識して暮らすことになります。自分のことだけでなく残された家族のことも心配で、先立たれる日まで苦しい日々を送られていたことでしょう。
ご本人さんには今まで会ったことがありませんのですが、同じ府大合唱団で青春の楽しい日々を送った者として彼女の悲劇的な人生の終わり方を深く心に受け止めました。
月並みな言い方しかできませんが、ご冥福をお祈りいたします。


≪忠臣蔵ネタの最後に≫
◎ 忠臣蔵の脚本家がこしらえたストーリー
前回浅野内匠頭が殿中刃傷事件を起こした原因について「浅野内匠頭精神障害説」を紹介しました。
普通の人間なら「切腹・お家断絶」になると判っているのに、どんな事情があっても殿中で刃傷事件を起こすはずがない。一時的に精神に異常をきたさない限りあり得ないと思えます。
しかし内容を面白くするために忠臣蔵の脚本家は吉良上野介を絵に描いたような極悪人に仕立て上げて浅野内匠頭に対して意地悪をしまくり、刃傷事件直前には酷く罵倒されたために激怒した浅野が事件を起こすというストーリーをこしらえたわけです。
その作り話のおかげで忠臣蔵の物語が大変に一般受けするものとなりました。昭和時代まで日本人の間ではとても人気のある物語となり何度も何度も上演上映されました。おかげで史実とは異なる作り話が事実と誤解されて世に広まりました。
◎ 赤穂藩士の圧倒的多数は「不忠臣」であった
殿中刃傷事件により赤穂藩浅野家は解体され約300名の藩士はすべて浪人となった。討入りした赤穂浪士は47人なので「不忠臣」の方が圧倒的に多い。
藩主の浅野が刃傷事件を起こしたおかげで赤穂藩は取り潰しとなり藩士は全員失業して浪人に。しかも浅野は卑怯にも後ろから不意打ちで斬りつけたのに老人一人殺せず、その上に自分が任されている重要な役目である勅使接待をぶち壊した。
これでは浅野はダメな主君としか言いようがありません。そんな主君に何故忠義を尽くさねばならないのか?そう考えれば吉良邸討入りに参加しなかった「不忠臣」の方が沢山いても当然と思えます。
また討入りした浪士の中には、うまく行けば「主君に忠実な武士」としてどこかの藩に再雇用してもらえるかもしれないと打算を胸に秘めていた者もいたことでしょう。確かに当時の「識者」で赤穂浪士の忠義を認めて助命論も出ていましたが、結局は浪士たちは切腹となりました。
◎浅野内匠頭は討入りされて当然だったのか?
前々回に紹介した『浅野内匠頭家来口上書』を見ると、赤穂浪士らですらなぜ浅野が吉良を恨んだのか知らなかった。
吉良の何らかの言動で恨みを持ったかもしれませんが、どんな事情であれそれで浅野が吉良に殿中で斬りかかって良いという理由にはならないでしょう。
ましてや主君が殺しそこねたという理由だけで、切腹した主君に代わって元家臣たちが屋敷に討入りをして寄ってたかって吉良を殺してしまう。これが正義なのでしょうか?
そして忠臣蔵の作り話のおかげで歴史上の人物吉良上野介は赤穂浪士に殺されて当然の極悪人とほとんどの日本人から思われてしまいました。
× × × × ×
下図は過去の映画のポスター。たぶん昭和30年代か40年代のものでしょう。その頃は忠臣蔵映画は上映すれば必ずヒットと言われていました。俳優も当時のトップスターがズラリと出演しています。古き良き時代でしたね。


4回目の忠臣蔵のお話です、今回はかなり意外性があるがもっともだと思える説の紹介です。
7.浅野内匠頭精神障害説
≪浅野は一時的に精神異常を起こし吉良に斬りつけたのでは?≫
浅野が刃傷事件を起こしたのは一時的に気が変になったからだ、という説がありますが、私もそれが一番しっくりくると思います。
# 例えば『浅野内匠頭刃傷の秘密―精神科医の見た赤穂事件』 (1985年)という著書が出ています。これは精神科医が史料に見える浅野の状況から浅野を「精神鑑定」したものです。この著書では「浅野内匠頭精神障害説」が説かれています。
# 刃傷事件を起こした時の浅野は2回目の勅使接待役であった。特に今回の接待は将軍綱吉が母に朝廷から高位をもらうために働きかけをしていたので、絶対に不手際があってはいけない。そんな重要な役目に2回も選ばれたということは、浅野はそれなりの“切れ者”だったはずです。
# そんな浅野がいかなる事情であれ、刀を鞘から三寸抜くだけで「御家断絶、切腹」となるのに殿中で刃傷事件を起こすはずがない。常識で考えてもかなりの間抜けな人物でもそんなことはするはずない。
そして前回に書いた通り刃傷事件の直前に散々吉良から罵倒されてカッとなって斬りつけたというのは忠臣蔵脚本の作り話です。目撃証言では突然現れて吉良に後ろから斬りつけている。
やはり一時的に精神に異常をきたしたからとしか考えられません。他にも刃傷事件の際に浅野は下記の通り異常としか言えない行為を他にもしています。
≪刃傷事件起こした時の浅野の異常な行為≫
◎壮年の浅野が老人の吉良に後ろから突然に斬りつけたのに殺せなかった
33歳と若い浅野が60歳と高齢な吉良を背後から不意打ちし、しかも数回切りつけたと目撃証言があるにもかかわらず殺すことが出来なかった。
そもそも武士である浅野がこれほど有利な条件で斬りつけたのに老人一人殺せなかったのである、なんとも異常である。
◎突き刺せば確実に殺せたのに斬りつけた
「小刀は突くもの」とは武士の常識である。脇差のように短い刀を振り回しても相手に致命傷を与えられない。それより相手の胴体を突き刺せば確実に殺せる。
それに吉良は烏帽子を被っていて烏帽子の上から斬りつけても烏帽子には鉄の輪が入っているため刀は効かない。
このように浅野は全く武士の常識から外れた刀の扱いをした。
◎勅使接待役という自分の役割を全く考えていない
浅野が吉良に斬りつけたのは勅使が江戸城に来る直前の事でした。既に書きましたが浅野は勅使の接待役で、その斬りつけた相手が接待総責任者の吉良である。こんなことをすれば接待も何もすべてぶち壊しになるのは分かり切ったことです。いくら何でも自分の立場を全く考えないムチャクチャすぎる行いです。
まともな人間なら吉良に恨みがあるとしたら勅使接待が終わってからやるのがスジ。これでは浅野の職務に対する責任感は子供並み。
≪浅野が精神異常を起こしたという状況証拠≫
◎老中3人が 「浅野は乱心」 と言っている
刃傷事件の起こった日の午後に将軍綱吉は老中を集めて浅野の処分を検討した。
勅使接待をぶち壊されて激怒している綱吉は“即日切腹”との意向であったが、5人の老中のうち3人が「浅野は乱心」ではないかと処分の猶予を願った。しかし結局は綱吉の意見通り事件当日に浅野は切腹となった。
このように3人の家老が「乱心」と言ったということは、家老たちが直接見たか人から伝え聞いた浅野の様子が明らかに精神の異常が感じられたということでしょう。
◎浅野の叔父も同様の事件を起こしていた
この事件から21年前の三代将軍家光の法要の際に、浅野の母方の叔父も同じく乱心して刃傷事件を起こし殺人を犯し翌日切腹となっている。これは統合失調症(以前は精神分裂症と呼ばれていた)によるものとも言われている。この病気は決して遺伝病ではないが、その病気に弱い体質は遺伝する。それで浅野は統合失調症だったのではという説が研究者から出ている。
× × × × ×
下図の浮世絵は殿中刃傷事件を描いたもの。
ただし浮世絵師は町人で武家の常識がよく分かっていないためか変な絵になっている。まず衣装が“長裃(ナガカミシモ)”になっている。これは略礼装で名奉行「遠山の金さん」がお白州で着ているものと同じ。
勅使来訪の際の服装の決まりは最高級礼装の“大紋(ダイモン)”である。背中にその大名の家紋が大きく染め抜かれた衣装で、烏帽子を必ず着用する。
そして振り上げている刀も脇差ではなく殿中に持ち込めない長い方の刀です。


忠臣蔵のお話 第3回目です。今回は忠臣蔵に関する当時の歴史文書現代語訳を引用しての説明です。当時の生の証言をお読みいただけます。
5.殿中での刃傷事件の真実
≪殿中刃傷事件の目撃証言≫
刃傷事件が起こったのは勅使が江戸城へやってくる直前のことでした。実は浅野 内匠頭(タクミノカミ)が吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけた時にその場にいた梶川与惣兵衛という旗本が残した『梶川日記』に事の顛末がちゃんと書かれています。
ウィキペディアにも載っており【註1】、その口語訳された梶川日記の該当部分コピーは下図の通りです。ここに書かれた証言と忠臣蔵の脚本とを比べてみましょう。
# 梶川日記では赤アンダーラインのとおり、梶川と吉良が立ち話していると突然浅野が後ろから吉良に斬りつけてきたというものです。
# ところが忠臣蔵の芝居では吉良から散々罵倒された浅野がカッとなって吉良を呼び止め振り返った吉良に正面から斬り付けています。目撃された事実と全く異なっております。
# それに梶川日記以外でもこの日この場面までは二人の間でトラブルが起こったことを見たという証人は誰もいなかった。とにかく忠臣蔵の芝居とは異なり浅野が何の前触れもなく突然に吉良に後ろから斬りつけたのが証言された事実です。
【註1】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E7%85%A7 『刃傷事件に関する記述』


土曜に何か書く8≪ 『浅野内匠頭家来口上書』 に書かれていること≫
『浅野内匠頭家来口上書』 とは忠臣蔵の芝居で大石内蔵助(クラノスケ)ら赤穂浪士が吉良邸討ち入りの際、竹に挟んで門前に突き立てた 「アレ」 である。これもインターネットで調べられ【註2】、その口語訳のコピーは下図の通りです。
ちなみにこの口上書はひょっとして自分たちが返り討ちにあって全滅したときのために、ちゃんと自分たちの思いを伝えておこうとして書いたものである。
# 下図の朱線部分を見てください 「吉良上野介殿へ意趣(恨み)を持ち、殿中においてその場で避けがたい思いがございましたのか」 と疑問形で書かれている。すなわち 「当日何かガマン出来ないことがあったのだろうか?」 と大石ら自身も何がきっかけで刃傷事件を起こしたのか知らなかったのです。
# ついでに書きますが青線を引いたところには 「この喧嘩」 とあります。しかし吉良はただ一方的に斬りつけられ反撃もしていない。それで全く 「喧嘩」 などと呼べるものではない。浅野による殺人未遂事件の吉良は一方的な被害者です。喧嘩というのは赤穂浪士側の勝手な言い分。
# もう一つついでに書きますと、黒線の部分 「ただひとへに亡主の意趣(恨み)を継ぐ志だけでございます」 と書いてあります。これは 「亡き主君の恨みを継いで、主君の殺し損ねた吉良を家臣の我々が討取りたい」ということ。
# 以上をまとめますと「どういう理由で主君浅野が吉良を恨んだのかは知らないが、とにかく主君が吉良を殺しそこねたのだから、家臣の我々が主君の遺志を継いで吉良を殺す」というものです。
この大石をリーダーとする赤穂浪士の論理ですが、かなり不条理ですね。どういった理由が分からないが主君が吉良を殺そうとして出来なかったので、家臣の我々が亡き主君の遺志を継いで吉良を殺すというものです。ちょっと賛同できませんね。
【註2】浅野内匠頭家来口上書http://yamazakinomen.mizutadojo.com/asanotakumino.htmlC’77卒石田(事務局長)
2022/01/29(Sat) 07:46 No.460
土曜に何か書く8下図の浮世絵は吉良邸討入りで浪士に発見された吉良上野介。浅野から恨みを買ったためか殿中で斬りつけられた被害者です。この人はチョイワル程度の普通の旗本だったのじゃないかと思います。それなのに1年後に赤穂浪士に討入りされ無残にも殺された上に忠臣蔵の芝居では極悪人として描かれています。C’77卒石田(事務局長)
2022/01/29(Sat) 08:01 No.461
先週に引き続いて忠臣蔵の真相を探求するお話です。今回の話だけでも忠臣蔵脚本家が肝心なところで作り話をしているとご理解いただけます。
4.江戸城内での刃傷事件が起こるまでのストーリー
≪刃傷事件当時の浅野と吉良の役割≫
最初に事件当時の浅野 内匠頭(タクミノカミ)と吉良 上野介(コウズケノスケ)の役割を書いておきます。
#天皇が勅使を、将軍である徳川綱吉に派遣することになっており、その勅使接待の担当者が浅野で、接待総責任者が吉良とされた。
#すなわち吉良は浅野に手落ちがないように指導・監督する役目でした。特に今回は将軍綱吉が母へ朝廷から「従一位」という高位をもらえるように働きかけをしている最中だったので、“勅使の接待には絶対に不備があってはならない” という特別な事情がありました。
≪吉良によるイジメの数々≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めての接待役なので吉良に接待の方法について色々と教えを請います。しかし吉良は刃傷事件の日に至るまでに浅野に散々意地悪をしていた。内容は下記の通り
①勅使接待場の玄関に金屏風を飾るべきところ、吉良は墨絵屏風を飾るべきと教え浅野に恥をかかせた
②接待の料理に地味な精進料理を出すべきと吉良は浅野にウソを教えた。
③勅使が将軍家菩提寺の増上寺に参詣する時に畳替えをすべきなのに必要ないと指示した。
④勅使来訪当日の服装は最高級礼装(大紋)であるべきなのに略礼装(長裃)でいいと指示した。
言っておきますが、これらはみな作り話です。理由は下記の通りです。
≪常識的に考えてあり得ないストーリー≫
# 上記①~④はどれも天皇の使いである勅使に対して非常に失礼なことをすることになります。そのためひょっとして勅使が怒って京へ帰ってしまうことは当然考えられます。
# 勅使が怒って京へ帰ってしまうと、今回は特に大切な接待なので綱吉将軍は激怒するでしょう。そうなれば浅野だけでなく指導・監督役の吉良も「お前がついていながら何だ!」と責任を問われます。このような自分で自分の首を絞めるようなバカなことを吉良がするはずがありません。
≪実は浅野は接待役を以前やっていた≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めて接待役を受け持ったことになっているが、実際は17歳の時に同じ役を経験している。当然、接待の方法は浅野やその家臣が知らないはずがないのです。ですから吉良から聞かなくてもどの様にするかは知っていたはず。そもそも今回の勅使接待は絶対に落ち度があってはいけないので、接待役を初心者に任せるはずがなく、経験ある浅野が選ばれているのです。
それで上記①~④は全て吉良を悪人にして浅野を善良な被害者にするための作り話です。また浅野が殿中刃傷事件を起こしたもっともらしい理由としたいからです。
≪すべては浅野の刃傷事件を起こした理由付けのため≫
何故このような話をでっちあげるかと言えば、次回以降で述べますが現実には刃傷事件の原因となるような具体的な出来事を誰も知らなかったからです。殿中で刀を少し抜くだけで “お家断絶・切腹” になるのです。そんなムチャクチャ異常な行動を起こした原因の説明のために忠臣蔵芝居の脚本家は苦心して色んな作り話をしました。
そもそも普通に考えて、浅野が自分と藩が破滅するような行いをするなんて一時的に精神異常を起こさない限りあり得ないわけです。しかしそれでは 「悪人は滅び、正義が勝つ」 という芝居のストーリーにならない。何としても浅野は正常であったが極悪人の吉良にいじめられてカッとなり刃傷に及んだことにしないと観客に喜んでもらえるストーリーにならないのです。
下図は雪の夜の吉良邸討入りを描いた浮世絵 『夜討之図』 歌川国芳


1.忠臣蔵の真相についてお話します
私が小中学校生だった50~60年ほど前の時代でしたら年末年始のTV番組ではよく忠臣蔵が放送されていました。それは忠臣蔵クライマックスの赤穂浪士吉良邸討入りが旧暦で12月14日、新暦で言えば1月末であり時期的に近いことによるためでしょう。
昭和時代までの日本では人気のあった忠臣蔵の物語は下記の赤穂事件をもとに創作されたものです。そのため忠臣蔵のストーリーには史実とは異なる作り話が沢山あります。実際にはまさかと思うような根本的なところでフィクションがあるのです。なかなか意外性があって面白いので数回にわたってお話いたします。暇な方にはお読みいただいたら雑学にはなると思います。ちなみにタネ本は井沢元彦著『逆説の日本史14 文治政治と忠臣蔵の謎』(2011年小学館文庫)です。
下図は葛飾北斎作の 『仮名手本忠臣蔵』 十一段目 吉良邸討入りの浮世絵


土曜に何か書く62.忠臣蔵の元となった赤穂事件とは
関連して起こった江戸時代の下記の二つの事件を指している。
◎ 殿中刃傷事件
元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩主の浅野 内匠頭(タクミノカミ)が殿中すなわち江戸城内で吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけたため切腹・御家断絶となった事件。
◎ 赤穂浪士吉良邸討ち入り事件
翌元禄15年12月14日夜から翌日にかけて、赤穂藩の主席家老だった大石 内蔵助(クラノスケ)をリーダーとする赤穂藩浪人47人が吉良邸を襲撃し、上野介を討取ったという事件。
3.忠臣蔵という題名になった理由
≪蔵の話ではないのになぜこの題名≫
私は小さいころ 『忠臣蔵』 という題名の意味が解らなかった。題名に「蔵」がつくので物語に蔵が出てくるかと思えば全然そんなことはないので 「なんでだろう?」 と常に思っていた。その理由は下記の通りだったのです。
≪江戸時代の芝居には規制があったので≫
忠臣蔵とはもともと人形浄瑠璃のタイトルであって、1748年初演 『仮名手本忠臣蔵』に由来している。
江戸時代は現実の事件をそのまま扱った芝居の上演は許されていなかった。そのため忠臣蔵の元となる赤穂事件を扱った芝居を上演しようと思っても吉良上野介や大石 内蔵助(クラノスケ)という名前を出せなかった。
それで脚本家はこれを室町時代の 『太平記』 の世界に置き換えた。ただし観客には赤穂事件のことと分かるように、下記のような色んなヒントとなる言葉をちりばめた。
# 登場人物名では吉良上野介や浅野内匠頭は 『太平記』 の登場人物名にならざるを得なかったが、大石内蔵助については大星由良之助(オオボシ ユラノスケ)で妻の名は 「お石」 とした。これで夫婦合わせて大石となる。
下図は幕末の頃に作られた忠臣蔵の浮世絵です。江戸時代であるので大星由良之助となっているが大石内蔵助のこと。吉良邸討ち入りの陣太鼓を打ち鳴らしている。
# 人形浄瑠璃題名 『仮名手本忠臣蔵』 の 「仮名手本」 とは 「いろは四十七文字 」 のことで赤穂浪士四十七士を暗示している。
# 『忠臣蔵』 とはその通り解釈すれば 「忠臣」 が 「蔵」 一杯つまったような芝居という意味であるが、この題名でリーダーの大石内蔵助を連想してもらおうとしている。
このようにして脚本家は 「この物語は本当は例の赤穂事件の話ですよ」 ということを観客に分かってもらおうとしている。
そして明治になってからは忠臣蔵の芝居が今のように浅野内匠頭とか大石内蔵助という実名を使って上演できるようになったが、題名の 『忠臣蔵』 は今さら変えるわけにいかなかったのでしょうそのまま現在に至るまで使われ続けています。
ちなみに私が 『忠臣蔵』 より前に 『〇〇蔵』 という名前の江戸時代の文芸作品がないか調べてみたら一つだけありました。井原西鶴作の浮世草子 『日本永代蔵』 (にっぽんえいたいぐら1688年)。この書名を真似たのかなと、ド素人の判断ですが思っております。C’77卒石田(事務局長)
2022/01/15(Sat) 08:23 No.457
下図は昨年末に写した府大敷地の南西にある運動場の写真です。
画像上半分は運動場入口の門扉ですが普段は閉じられています。見ての通り運動場が工事中であることがよく分かります。
門扉右に貼り出されている工事の看板を見ると「仮設体育館」の工事と分かります。
画像の下半分の写真は門扉の格子から中を覗き込んだものです。仮設体育館の敷地全体にコンクリートを打設したと思われるものが見えます。このコンクリートの上に仮設体育館が建つのでしょう。
7月19日付でJIJIさんがこのトークルームに書き込んでくださった京都新聞記事の話題。
当該新聞記事には現在の体育館をつぶして府内最大級のアリーナを建てるということに賛否両論出ているという記事でした。
現在仮設体育館を建設中ということはアリーナ建築計画が進められていることが分かります。仮設体育館が完成した時点で現在の体育館をつぶして跡地にアリーナを建てるということです。2024年度に完成させるとか。


旧短大校舎の撤去工事今度は府大内に入ってみると昔女子短期大学部だった建物が撤去工事に入っていました。短大出身の方々には思い出深い建物がいよいよ無くなってしまうということです。寂しいことですね。
四十数年前に私が現役生だった当時の校舎の一部や体育館は今も存在していますが、現在の耐震基準を満たしていませんし、全くバリアフリーに適応していません。
車いすの学生も受け入れないといけないのにエレベーターの設置されていない校舎ではお話になりません。確かに当時の校舎は建替えるしかないと思います。ボックスも同様です。
現役の幹事長に現在行われている工事の件で何か知らないか聞きましたが、学生には詳しいことは何も下りてきていないのかよく分からないそうです。そして合唱団練習場のある第2体育館もどうなるか分からないと言っていました。
とにかくこの数年の内に府大のキャンパス風景は大きく変わりそうです。これからも適時私の方で報告させていただこうと思っております。C’77卒石田(事務局長)
2022/01/08(Sat) 07:15 No.455