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人文学とは?歴史学とは?⑫

フワーリズミーです。
いよいよ最終回です。今日は最後に、人文学的に情報を吟味すること、これについてお話しします。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/27(Sat) 11:23 No.394
人文学とは?歴史学とは?⑫
人文学は答えのない問題に対して、アクセスし得る最大限の情報を頼りに、可能なあらゆる選択肢を考える学問だといいました。
人文学においては「常識」すらも鵜呑みにせず、それは本当のところどうなのか、信じることのできる情報なのか、ということから問題になってきます。
いまの自分の価値判断は何に依拠しているものなのか、いま自分が見聞きしている情報はどういう意図で発せられたのか。与えられる情報をただ受け取るだけでなく、その裏側にあるかもしれない意図や事情にまで考えを巡らす、これが「人文学的なモノの考え方」をするということなのだと思います。

わたしたちは決してひとりで生きているのではなく、社会のなかにあるわけですから完全に自分だけの考えで生活するのは不可能です。しかしそれでも、なるべく他人の考え方や偏見、集団によって形成されるステレオタイプから自由になって思考していこうとするならば、人文学はわたしたちにとって必要不可欠な武器になるに違いありません。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/27(Sat) 11:27 No.395
人文学とは?歴史学とは?⑫
哲学者ミシェル・フーコーはかつて、哲学とは「すでに知られていることを正当化するそのかわりに、別の仕方で思考することがどのようにしてまたどこまで可能であるかを知ろうとすること」だと書きました(『快楽の活用』1984年、p.14-15より、訳は慎改康之(2005)「フーコーと哲学」、『フランス哲学・思想研究』10、78-89頁を参照)。
しかし、こうした態度はただ学者だけに求められるものではありません。さまざまな情報やら意見やら言説やらが、玉石混交、虚実ないまぜになりながら渦巻くこの目まぐるしい世界を生きるうえで、わたしたちにとってもいよいよ欠かすことのできない姿勢なのです。

わたしの話はここまでです。お付き合いくださった方々、どうもありがとうございます。補足をくださった方もありがとうございます。つぎはみなさんの番です。
ぜひとも、普段のニュース番組、新聞、さまざまな日常の語りを「人文学的に」吟味してみてください。

(メディアについては、ピエール・アルベール(2020)『新聞・雑誌の歴史』、斎藤かぐみ訳、白水社、石田英敬(2020)『記号論講義』、ちくま学芸文庫の第10章「〈いま〉についてのレッスン」を主に参考にしました。)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/27(Sat) 11:29 No.396
人文学とは?歴史学とは?⑪

フワーリズミーです。
昨日の続きで、メディアとかニュースの話をします。

②「わたしたちが受けとる情報は、意図的に強調あるいは抑制されている」ということについて。

ここでは、新型コロナについての報道を例に取り上げます。とりわけ第1波のときに顕著だったと思いますが、報道はおもに次の3つのレヴェルが継起的に作用することで行われました。
1点目。東京や全国、あるいは諸外国の感染者数と死者数。病床使用率。
2点目。感染症の研究に携わる研究者の話や政治家による会見。
3点目。ある都市の人通りをとらえるカメラの映像や街の人の声。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:53 No.387
人文学とは?歴史学とは?⑪
1点目で特徴的なのはその数詞的特徴です。
数字それ自体は、一切の解釈や意味付けを受け付けず、他から独立して存在するのですが、この数字に前日比の増減数とか年齢別割合といった、受け手の判断を誘う情報が足されていきます。「今日は大阪で100人の感染者が出た」という情報だけでは意味がありませんが、「昨日に比べて50人増えた」という比較対象が付け加えられると緊迫感が出ます。
数字は、何よりもその明証性、つまりあいまいなところがないという性質でもって、受け手に逃れようのない現実を突きつけます。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:54 No.388
人文学とは?歴史学とは?⑪
2点目で特徴的なのはその権力性です。
研究者によって語られる情報は、こちらにその情報の真偽を確認する術はないのですが、「国立感染症研究所」とか「○○大教授」という肩書がその発言に学問的正当性を付与します。また、政治家の会見は、受け手のなかで感染症と国家の秩序維持機能とを結びつける役割を果たします。政治家によるお願いとか要請は、控えめなニュアンスとは裏腹に、その後ろに国家が控えているからこそ重みをもちます。
この学問的、政治的権力による語りは、受け手に耳を傾けさせ、その行動を指示します。

(写真は、国立感染症研究所です)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:55 No.389
人文学とは?歴史学とは?⑪
3点目で特徴的なのはその親近性と同質性です。
たとえば、人通りの多い街路が映し出されたとき、受け手はもはやこれを単なる風景としては認識せず、かわりに恐怖感をもちます。
さらに街を行き交う人にマイクを向けて、感染症に対するコメントを求めます。それはきいた受け手は十中八九こう思うでしょう。「あーわたしもわたしも。この人もそのように考えているのか。」
名前をもたぬ一個人の声は、定まった肩書をもたないことで、つまりお茶の間でテレビを観ている受け手と同じ立場であることを強調することで、お茶の間とテレビカメラの向こうとのあいだで、一種の想像的な共同体をつくりあげます。
そして、わたしたちはその共同体のあいだで醸し出される同調圧力に従って、感染症を対岸の火事ではなく、自らに差し迫った問題として把握するわけです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:56 No.390
人文学とは?歴史学とは?⑪
もう一度まとめましょう。
まず数字が、わたしたちに反論しようのない事実を突きつけ、次いで権力による語りがわたしたちにこれからとるべき行動を指示し、次いで市井とわたしたちのあいだに作られる共同体がわたしたちをそのとるべき行動に駆り立てるわけです。

ここでは、感染症の怖さを実感させ、感染症対策に協力したくなるような情報を強調しようという戦略的な配慮が見てとれます。赤や黄色の彩られたテロップや、文字の大きさとかフォントも、やはり情報の強調に一役買っています。

誤解のないように言い添えておきますが、わたしは決してコロナ禍がメディアに扇動されたものであり、感染症に対して楽観的でいるべきだといっているのではありません。
わたしがここでお伝えしたいこと、それはメディアの流している情報が事実だけを淡々と語る透明なものではなく、しばしば特定の意思のもとで受け手を操作する効果をもつようにつくられている可能性がある、ということだけです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:58 No.391
人文学とは?歴史学とは?⑪
メディアmediaは「媒介mediation」からきていますが、それはたんにあるがままを伝えるだけでなく、受け手をひとつの価値判断に導く効用をもちます。そして、わたしたちはこのことを自覚して、注意してニュースを受け取らなければなりません。
ですから、ニュースというのは、じつはある程度の思考力を要するものといえます。そうでなければ、知らずのうちに自分の価値判断だと考えていることが、実際は他人の価値判断だったということになるわけです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/26(Fri) 23:59 No.392
人文学とは?歴史学とは?⑪
政党の支持率を考えてみましょう。
わたしたちの大半は実際に政治が行われる現場に身をおいたことはありませんし、政治家に会うこともあまりないでしょう。それでもわたしたちは、政治のことについて議論し、○○党を支持しようとか政治家の○○はダメだとか言います。「○○党を支持しよう」というのは、ひとつの判断なわけですが、この判断を下支えしているものは何でしょうか。材料は決して多くはないはずです。日々のニュースを除けば、せいぜいが政党事務所から家々に配布される活動報告のビラか、道端で目にするポスターくらいのものでしょう。メディアは、政党の支持率に対して否定できないほどの力をもっているわけです。

そうすると、国民の意識形成にあってメディアが果たす役割はたいへん大きいといわざるを得ないですし、それだけ日々の報道を慎重に受け取る必要があるのです。
そして、日々の報道を吟味するときに大事になってくるのが、ほかでもない「人文学的なモノの考え方」です。長かったですが、ようやく人文学の話に戻ってくることができました。

今日はすこし長く書きすぎました。
明日は、わたしたちの身の回りにあふれる情報に対して、人文学がどういう関係にあるのか。どうして現代は、いままでよりも「人文学的なモノの考え方」が必要とされるのか。こういったことをお話ししていきます。明日で最終回です。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/27(Sat) 00:00 No.393
人文学とは?歴史学とは?⑩

フワーリズミーです。

今日は、わたしたちの周りにあふれているニュースの話を入っていきます。すこし長くなるかもしれませんが、かならず昨日触れた「人文学的なモノの考え方」に帰ってきます。

昨日の最後にわたしが申し上げたことは、
①わたしたちが受けとる情報は、人為的に取捨選択されている
②わたしたちが受けとる情報は、意図的に強調あるいは抑制されている
ということでした。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/25(Thu) 18:53 No.382
人文学とは?歴史学とは?⑩
まず①について。
これは、そこまで虚を突いたことを言っているわけではないと思います。新聞とか報道番組とかネットニュースとか、なんでもそうですが、情報をもっている側はその情報を伝えることができると同時に、伝えないこともできます。
そして、この伝える/伝えないという判断は、全面的にメディアの側に確保されています。受けとるわたしたちは「この情報を伝えてほしい」とか「これをもっと知りたい」とかそういったことは言えないのです。

では、メディアはなにを基準にして、数ある情報のなかから伝える/伝えないを区別しているのでしょうか。
いろんな基準があるでしょうけど、すぐに思いつくのは「多くの人が知りたがっているとメディアが予想している情報」と「どこかから伝える/伝えないように要請された情報」でしょう。

前者は、分かりやすくいえば「センセーショナルな情報」ということになると思います。最たる例は週刊誌に求められるでしょう。一時期、「文春砲」という言葉が流行りました。芸能人の誰々が不倫していただとか、政治家が時短要請に応じない店で深夜までどんちゃん騒ぎをやっていただとかをすっぱ抜く、あれですね。
なぜそんなことが起こるのか。それはおそらく、メディアがすべて資本主義経済と分かちがたく結びついていることに起因します。
おおやけに「御用新聞」とか「国定メディア」がない日本にあって、メディアの消長はいかに多くの人に手に取ってもらえるかにかかっています。どんなに練りこんだ記事もニュースも、見聞きしてもらうことによってはじめて価値をもちます。
より多くの人が見聞きしていると予想するからこそ、企業は新聞に広告をだしたり、番組のスポンサーになったりします。そして、メディアもそこを分かっているからこそ、番組改変期にはワイドショーのキャスターを替えてみたり、コメンテーターに話のうまいタレントを入れてみたりするわけです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/25(Thu) 18:55 No.383
人文学とは?歴史学とは?⑩
後者は、たとえば緊急地震速報なんかを挙げることができるでしょう。どんなに重要なニュースを流しているときでも、あのフラットだらけの半音移動が2回流れた途端に、画面はスタジオに切り替わり、アナウンサーが緊迫した表情で、地名を羅列しはじめます。この場合、情報は気象庁およびそれを管掌する政府から要請されたものを流しています。

逆の例としては、国家による情報の検閲を考えることもできます。
こうした例は歴史を少しでも学んだひとならば、もう無数に挙げられるはずです。戦前の日本には新聞紙法というのがありましたし、ナポレオンは政権を握るやいなや法律を発してそれまでパリにあった73紙のうち実に60紙を廃刊処分としたのでした。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/25(Thu) 18:56 No.384
人文学とは?歴史学とは?⑩
例に挙げたのはいささか極端な場合ですが、わたしたちに身近な場合では、新型コロナが流行して以降、殺人事件とか交通事故の報道が減ったように感じられませんか。
しかし、これも実際に事件事故が減ったからではなくて、それよりも重要なニュースがあったために放送時間内でそれを伝えることができなかったからだ、と考えることもできます。

今日はおもにニュースにおける情報の取捨選択についてお話ししました。明日は、情報の意図的な強調&抑制の話をします。意図的、というところがポイントです。それでは。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/25(Thu) 18:57 No.385
人文学とは?歴史学とは?⑩
ちょっと割り込ませてもらって、書きます。
ある評論家、ここではA氏としましょう。その人が言っていました。自分がコメンテーターの一人として出たTV番組でのこと。その番組を見たA氏と懇意な人が、次のようなことを言ってきました。「あの番組ではあなたが常から主張されていたことをなぜ一言もおっしゃらなかったのですか?」と。
実は番組収録ではA氏は自分の主張をよく発言していたのです。それが編集段階でカットされて、放送される段階ではA氏は肝心なことについて何も発言していないことになってしまっていたのです。
新聞や雑誌の取材で発言の一部のみを切り取って主張内容をかなり捻じ曲げたものとして報道されることもあるそうです。発言者は油断もスキもないのです。
新聞社などは自社のスタンスに都合の悪いことは「報道しない自由」を持っていますね。
user_com.png ヒマ人 time.png 2021/03/26(Fri) 11:30 No.386
人文学とは?歴史学とは?⑨

フワーリズミーです。

昨日は人文学がどういう学問か、ということをいささか私見も交えながらお話しました。
それはそうと、3日前、史料の正しさについて書いたコラムのなかで、歴史学をやる意味はいったいどこにあるのか、という問題を残しておきました(「しかし、真実が不在だと分かっているのなら、歴史学をやる意味はどこにあるのでしょうか」というところです)。
しかしいまや、この問題に答えることは難しくありません。
人文学は答えのない問題に対して、考えられるいろいろな選択肢を提示する営みで成り立っている、といいました。
歴史学は、過去の人びとの営みを考えること、しかもあらゆる「当たり前」を排して、なるべく透明な眼で過去を見つめることによって、人文学をやっているわけです。

以上で、冒頭に書いた目的、つまり歴史学や人文学がどういう学問かを知っていただこうという目的はある程度達成できただろうと思います。
しかし、いままでお話してきたようなモノの考え方は、果たして歴史学や人文学に携わる研究者だけが必要とするものなのでしょうか。学問からはおよそ離れた場所で生きているわたしたちには、ぜんぜん関係のない認識の仕方なのでしょうか。わたしはそうではないと感じます。いやむしろ、現代はいままでよりも「人文学的なモノの考え方」が必要とされているような気さえしています。

残りの部分では、そのことについて書くことにします。この文章で、わたしの意見は極力述べないつもりですが、もしかしたらフワーリズミー私見が入りこむかもしれません。あらかじめご容赦ねがいます。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/24(Wed) 22:14 No.380
人文学とは?歴史学とは?⑨
現代はとりわけ情報にあふれている時代だといえるでしょう。
それはたんに量のことだけをいっているのではありません。情報の質もまた多様化してきました。巷間にはウソかホントか分からない情報が出所不明なままに流布し、しかも情報はしばしばウソかホントかよりもセンセーショナルかいなか、によって流布する度合いが変わります。
たとえば、前米大統領トランプさんを引き合いに出しましょう。彼の支持者が合衆国議会の議事堂に乱入したというニュースに比べて、彼が中東地域でイスラエルと周辺諸国の和平を仲介したというニュースは日本でどれくらい報道されたでしょうか。

明日以降の文章で、お伝えしたいと思うのは次の2点です。
①わたしたちが受けとる情報は、人為的に取捨選択されている
②わたしたちが受けとる情報は、意図的に強調あるいは抑制されている

今日はもう、それなりの分量になりましたから、続きは明日に回します。今日はここまで。。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/24(Wed) 22:16 No.381
人文学とは?歴史学とは?⑧

フワーリズミーです。
昨日は人文学に登場してもらいましたし、哲学のちょっと込み入った話もしました。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/23(Tue) 22:58 No.377
人文学とは?歴史学とは?⑧
今日は、人文学とは何かについてもうすこし掘り下げてみましょう。

大学の学問に置き換えてみると、人文科学のなかにはわたしがかつて勉強していた歴史学、それから文学が入ります。
教育学や宗教学や言語学なんかも入るかもしれませんが、これは社会科学にあたるかもしれません(府大で教職をとろうとすれば、かならず公共政策学部のお世話になります)。

ここでは、さしずめ文学と歴史学を人文科学と考えましょう。文学のこととなると、完全にわたしの手に余りますが、要は詩や小説、戯曲など、人の手によって書かれたものを読み込んではそれを解釈したり批評したりする学問と理解されています。あるいは、ある時代に著された作品群を取り上げて、それが書かれた当時の時代精神のようなものを読みとろうとするアプローチもあり、歴史学とも通じるところがあるような気がしますし、たとえばフレドリック・ジェイムソンの『政治的無意識』(1981年、平凡社)には社会科学の知見が作品の分析に、ふんだんに用いられます。また大学の文学の授業で教科書として使われることも少なくないピーター・バリー『文学理論講義』(2014年、ミネルヴァ書房)には、イタリアの歴史家クローチェやイギリスの歴史家であるE.P.トムスンも登場します。

さて、解釈と批評。2~3日前、歴史学では解釈や評価が重要な意味をもっているといいましたが、文学もこれに似ていると思いませんか?そうです、歴史学が過去の出来事やら過去の人間の生活を研究するのとよく似た姿勢で、文学は人が書いたものについて研究しているのです。そして、文学の世界にもやはり、正解は存在しません。

(写真は夏目漱石。あなたにとっての「文豪」はだれでしょうか。)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/23(Tue) 23:00 No.378
人文学とは?歴史学とは?⑧
ここまでお話してきて、ようやく人文学とはどういう学問か、という問いにひとつの回答をあたえるところまできました。
人文学、さしあたっては次のように考えることにしましょう。
すなわち、答えのない問題に対して、アクセスし得る最大限の情報を頼りに、可能なあらゆる選択肢を考える学問である、と。人文学において、「常識」というのはあまり重要な意味をもちません。いま常識とされていることすらも、一度は疑ってみる。それはどうして常識なのか。いつから常識なのか。誰にとっての常識なのか。

ですから人文学を修めていたからといって、ひとの病気が治せるわけでもなければ、ひとの飢えや渇きを癒せるわけでもありませんし、就職にもつながりません。
人文学は、とうてい実学ではなく、いわば立派な虚学です。その価値はなかなか理解されにくいでしょうし、どころか最近みられるようにお払い箱にされる傾向すらあります。しかし、ひとびとがいま生きている世界はどうなっているのか、どうあるべきなのかを考える学問が不用になることは決してないだろうと思います。
わたしの話も最終盤まで来ました。今日はここまでです。

(人文学についての話は、安酸敏眞(2018)『人文学概論』、知泉書館、隠岐さや香(2018)『文系と理系はなぜ分かれたのか』、星海社新書(写真参照)、も参考にしました。)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/23(Tue) 23:02 No.379
人文学とは?歴史学とは?⑦

フワーリズミーです。
昨日の京都新聞、読まれたかたいらっしゃるでしょうか。
3日目のコラムでわたしが参考にした研究者、田端泰子さんが「天眼」(3面)を書かれてました。一級史料である『大乗院寺社雑事記』に収録されている日記を書いた、尋尊の話でした。

さて今日から、「人文学」の話をしていきたいのですが、すこしここまでの内容をまとめておきます。
まず歴史学では、古文書とか土器の破片といった史料も大事だが、そこから分かることをどのようにまとめるかが歴史家の腕の見せどころだという話をしました。それゆえ、歴史学はどこかにあるだろう答えをみんなで探していく学問ではなく、確実な史料をつかってより実態に近い過去を復原していこうという学問です。そうして描かれたストーリーが歴史なのです。
もちろん過去のどの側面に焦点を当てるかで、あらわれてくる解釈、描かれるストーリーは異なってきますが、そのどちらもウソの史料に基づいていないかぎり、あるいは作り話でもないかぎり、誤りにはなりません。富士山だって、静岡県側から見たのと、山梨県側から見たのとでは風景が違うはずですが、そのどちらもが富士山ありのままの姿であるのと同じです。

つまり歴史学は、どこかに神聖不可侵の真実があるわけではなく、つねに新しい視点からの新しい解釈によって変わってゆくことで、発展してきたのだともいえます。

(写真は、国際宇宙ステーションからみた富士山です)

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/22(Mon) 21:30 No.373
人文学とは?歴史学とは?⑦
さて、人文学の話です。

ここでみなさんには高校3年生にタイムスリップしていただきましょう。このときみなさんは、もはや同級生とまったく同じ勉強をしているということはなく、どの大学どの学部に進むか、あるいはどの職業に就くかで、大きく2つあるカテゴリーのうちの一方を選択していたはずです。2つのカテゴリー、つまり文系と理系です(文科/理科といっていた頃もあり、いまでも東大は文科一類とか理科三類という呼び名をつかいます)。京都府立大でいえば、文学部と公共政策学部は文系、生命環境学部は理系となります。

しかし、ヨーロッパではこれとは異なる区分をします。それが人文科学、社会科学、自然科学です。たとえば先日行われた、第1回の大学共通テスト、これの科目を3つの区分に当てはめてみましょう。
国語は疑いなく、人文科学です。日本史世界史や地理も人文科学、英語も人文科学にあたります。一方で、倫理や政治経済は社会科学にあたります。数学や理科はすべてまとめて自然科学に入ります。つまり、人間の知的文化を扱うのが人文科学、法律やら経済やらといった社会の原則を扱うのが社会科学、自然界の法則を扱うのが自然科学というような分け方です。
じつは府大の学部構成はこの3区分に厳密に対応していて、人文科学を学べるのが文学部、社会科学を学べるのが公共政策学部、自然科学は生命環境学部という配置です。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/22(Mon) 21:32 No.374
人文学とは?歴史学とは?⑦
コラム〈哲学について補足、すこし分かりにくいかもしれません〉

いろいろある学問のなかで、哲学だけはすこしことなる立ち位置にあります。「哲学」という日本語は、それが生まれたギリシア語のφιλοσοφίαや英語のphilosophyからきていますが、これはもともと「知(ソフィア)を愛する(フィル)」という意味です。その言葉の意味からして、知というものの全般を扱っているわけですから、世の中にある全ての学問は哲学ということができるわけです。
じっさい、哲学史のはじめに出てくる古代ギリシアの賢人たちは「世界はなにで出来ているか」という問いをずっと考えていましたから、広義の自然科学的なアプローチから思索をスタートさせていったといえそうですが、のちに現れたソクラテスやプラトンなんかは天下国家のことまで議論して人文科学や社会科学の範疇にも足を延ばしました。
いまの哲学はさしあたり、「ものを考えることについて考える学問」といえると思いますが、いみじくもイマヌエル・カントが「ひとは哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぶだけだ」といったように、自分の頭で考えることは全て哲学に入るのだろうと思います。わたくしフワーリズミー自身は、哲学は文系/理系のいずれにも、また科学の3区分のいずれにも、カテゴライズできないと思っています。

(写真はソクラテスです)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/22(Mon) 21:34 No.375
人文学とは?歴史学とは?⑦
今日は人文学という領域を紹介しました。明日はこの人文学がどういう学問か、ということについてもう少しみていきます。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/22(Mon) 21:35 No.376
人文学とは?歴史学とは?⑥

フワーリズミーです。
今日は、すこし史料の話をしたいと思います。歴史家は、ぜったいに史料に基づいてしか歴史を描くことはできないわけですが、その史料も果たしてどこまで信頼できるのか、これは大事なことです。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/21(Sun) 14:37 No.369
人文学とは?歴史学とは?⑥
〈コラム〉史料の正しさについて
どんなに腕の立つ料理人も材料なくして一品を仕上げることができないように、どんな練達の歴史家も史料なくして歴史を書くことはできません。
しかし、史料はつねに正しいのでしょうか。また、史料に基づいて書かれた歴史は、ぜったいにその時代の実態を可能な限り反映しているといえるのでしょうか。

史料は次の2つの点で信頼に値しない可能性があります。すなわち、ひとつははじめから事実を捻じ曲げてウソを書いている史料、もうひとつは作者の個人的な偏見が多分に混じっている史料です。
このうち歴史家が特に注意しなければならないのは、後者だとされてきました。史料を読むのも人間なら、書いているのもやはり人間です。史料を書いた人はだれで、その人はどういう人物で、その史料を書いた目的はなんだったのか。こういったことを十分に踏まえたうえで、史料を読まなければならないとされます。
そうでないと、史料を書いた人の偏見ないし個人的な考え方に後世の歴史家も踊らされます。たとえばいまの日本に置き換えても、ある政治家の発言なんかが取り上げられて、数百年あとの歴史家から「21世紀当時の日本人はこのような考え方をしていたのである」などと書かれてはたまりません。他にもそうした考えをする人の多くいた証拠があるならまだしも、ひとりやふたりの意見がその人の属していたコミュニティを代表していたと考えるのは無理があるわけです。

(写真は、史料そのものの信頼性を吟味する「史料批判」をはじめたランケです)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/21(Sun) 14:40 No.370
人文学とは?歴史学とは?⑥
一方で、はじめからウソを書いている史料のほうはあまり真面目に取り上げられないようです。それは大半の場合、すぐにウソと分かるからなのですが、しばしば郷土史(たとえば自治体が編んでいる○○市史のようなもの)にウソの史料が使われて一般の市民に紹介されている場合があります。
わたしたちの周りにもそうしたウソの歴史が少なからず存在すると暴露したのが、中公新書から去年出た、馬部隆弘『椿井文書』です。この本によると、とりわけ近畿圏の市町村史に活用されている史料類のなかには相当数の偽文書が紛れ込んでおり、しかもそれらの多くは椿井政隆というひとりの人物の手によって意図的に創作されたものであるらしいです。偽文書の出回っている地域があまりに広範なのと、その圧倒的な数量のために、専門の研究者でさえしばしば気づかなかったのだと指摘されています。
もちろんこの本じたいも批判の的になる可能性があると思いますが、さしあたり強調しておきたいのは、どんなに権威のある知識や学説もそのなかにウソが混じっているかもしれない、ということです。いまわたしたちが知っていることはいわば「暫定的真実」、つまり「いまのところは大多数によって正しいとされていること」にすぎないともいえるわけです。

(写真は「椿井文書」とよばれる偽史料のひとつです)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/21(Sun) 14:42 No.371
人文学とは?歴史学とは?⑥
しかし、真実が不在だと分かっているのなら、歴史学をやる意味はどこにあるのでしょうか。なぜ、わたしが歴史学の内容をこんなに長々とみなさんに説明しているのか、疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。この問いを残したまま、タイトルにも含まれているもうひとつの学問体系、「人文学」の話に移ります。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/21(Sun) 14:43 No.372
人文学とは?歴史学とは?⑤

フワーリズミーです。
昨日は、歴史学と解釈についてお話ししたと思います。今日はその続きです。

歴史における解釈が多種多様でありえるように、評価もまた同じく多様です。音楽の話で例えます。みなさんは、音楽の歴史に最も影響を与えた人物をきかれたら誰を挙げますか?バッハ、モーツァルト、いやビートルズでしょうか、美空ひばり、SMAPでしょうか。しかしここで、グーテンベルクを挙げることもできるのです。活版印刷術を発明して、印刷による出版をはじめた人物です。
15世紀なかごろ、印刷術の発明によって、それまでほとんど手書きでつくられていた本は、大量印刷、大量出版が可能になりました。本の値段は著しく下落し、書籍市場はそれまでにない速さで膨張していきました。それは楽譜も例外ではありません。印刷術が出るまでは、楽譜を持てるのは王侯貴族や教会にかぎられ、その楽譜を使って歌うのも高貴な身分の人物か教会付きの聖歌隊だけで、一般のひとびとは繰り返し聞いたことのある歌を口ずさむのがせいぜいでした。それが、印刷のおかげで市場に大量の楽譜が出回り、楽譜の読み方を知るひとが増えると、音楽や合唱は長足の進歩を遂げたわけです。ヨーロッパにある12~3の工房だけで、1520年から1600年までに実に6000点、推定300万部の楽譜が刷られたと見込まれています(アンドリュー・ペティグリー(2017)『印刷という革命』桑木野幸司訳、白水社、p.281~286)。

(写真はグーテンベルクの時代の印刷機です)

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/20(Sat) 10:54 No.367
人文学とは?歴史学とは?⑤
歴史学では解釈や評価が重要な意味をもつが、それらは単一のものに収斂されず多種多様でありえる。これは、歴史学に「答え」というものが存在しないことを意味します。いったん見つけ出されてしまえば、もうほかの人が手出しできず、その分野の研究が終わるような「答え」。フェルマーの最終定理とかABC予想とかとは異なり、歴史学にあって不可侵の「答え」はありません。
どんなにエラい教授が書いた歴史も、新しい視点や新しい史料、あるいは新しい事実の発見によって、また別の歴史が描かれるのを妨げることはできないのです。言い換えると、新しい視点や史料によって歴史学は、不断に発展していきます。
その意味で、過去はいつまで経っても凝り固まってしまうことなく、つねに「新しい歴史」を生むような、いまだ光の当てられていない側面をたたえて沈黙している、ということができます。

新しい視点。このキーワードもまた、わたしの話を前に進めるうえで大きな力をもちます。今日はここらへんにしておきましょう、それでは。

(解釈の話については、遅塚忠躬(2010)『史学概論』、東京大学出版会、リン・ハント(2019)『なぜ歴史を学ぶのか』、長谷川貴彦訳、岩波書店、第2章「歴史における真実」(p.27~56)も参照しました)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/20(Sat) 10:56 No.368
人文学とは?歴史学とは?④

フワーリズミーです。
ここまで歴史学が何をする学問か、ということをお話ししました。そして、歴史学というのはどうやら解釈がミソらしい、というところまで書きました。今日はこの「解釈」から、歴史学に切り込んでいきます。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/19(Fri) 21:15 No.364
人文学とは?歴史学とは?④
しかし解釈といっても、歴史学者が自由に歴史を書いていいわけではありません。信頼のおける史料とその史料が書かれた時代背景に適合的な読み、さらに出来るかぎり反証可能性を小さくしておくこと。こうした問題をクリアするような解釈、言い換えるとストーリーを描くことが求められるのです。

いまわたしはストーリー(お話)という言葉を使いましたが、歴史はもともとストーリーと切っても切れぬ関係にあります。歴史は英語でHistory、お話はStoryで非常によく似ています。ほかの言語をもってくるともっと分かりやすいでしょう。フランス語では歴史もお話も同じHistoireですし、ドイツ語でも同じく両者ともGeschichteです。歴史学の営為は文学のそれと似ているところがありますし、『歴史は現代文学である』(イヴァン・ジャブロンカ、2018年、真野倫平訳、名古屋大学出版会)というタイトルの本があるくらいです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/19(Fri) 21:24 No.365
人文学とは?歴史学とは?④
すこし脱線しました、解釈の話です。昨日例に挙げた日野富子にもう一度出てきてもらいましょう。まず、日野富子が足利義政の正室だった、というのは事実にあたります。1467年から応仁の乱が勃発したことも、山名宗全と細川勝元が相争ったことも、足利義政が東山に別荘を建てたことも、そして日野富子が相当の財を蓄え得る立場であったこともやはり研究者間で意見が分かれることはありません(これは歴史的真実にあたります)。反対に、なぜ応仁の乱が勃発したのか、日野富子はどういう目的で財を蓄えたか、足利義政と日野富子の関係はどうだったのか、ということについて意見が一致することもありません。というのも、そうした問いは事実のどの側面に焦点を当てるかで答え方が変わってくるからです。

応仁の乱ひとつとっても、将軍位の後継者争いなのか、将軍の身内を担ぎ上げている守護大名の家督争いなのか、それとももっと社会の深層に原因を求められるのか、それはどの史料をどう用いるかで異なる答えがあらわれてくることでしょう。
このように、歴史学の解釈は多種多様であり得ます。もちろん、そのいずれもが信頼できる史料に基づいていないといけないのですが。

今日はここまでにしましょう。明日はもうひとつ例を挙げて、歴史学の「多様性」ということをお話ししたいと思います。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/19(Fri) 21:25 No.366
人文学とは?歴史学とは?③

フワーリズミーです。
ちょっと一昨日、昨日と飛ばしすぎな感じがしているので、今日は短いコラムのような話をして、休憩しようと思います。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/18(Thu) 21:29 No.362
人文学とは?歴史学とは?③
〈コラム〉日野富子にみる歴史学の進展
きのう例で挙げた日野富子は、歴史学界でも評価が逆転した人物といえます。彼女にふれた本を出版年の順番に読んでいくと、興味深い変遷があらわれてきます。
まずは1977年に出た円地文子編『政権を動かした女たち』の第5章「日野富子」(筆・阿部光子)では、まだまだ悪女説が根強かったようで、「義政を尻に敷いたと憎む人もあるが、大体、義政は今参の局にも意のままに動かされていた男である。富子ひとりの責任ではないであろう」(p.184)とされています。この時代は、富子が義政を尻に敷いていたことは前提だったのですね。
それが2011年出版の『足利義政と日野富子』(田端泰子、山川世界史リブレット40)(という)本では、悪女説の大きな根拠となっている、富子が米価の高騰に備えて米を備蓄したというエピソードがじつは噂に過ぎず、しかもその噂が真実であった可能性は低いとしています(p.58)。
さらに、2018年の『陰謀の日本中世史』(呉座勇一、角川新書)第5章では、悪女説が流布するきっかけを作った『応仁記』が、じつはある目的でわざと実態を歪曲して書かれたものとしています(p.190)。日野富子研究をたどると、通説→通説への批判→通説が根拠としている史料への批判、というように歴史研究の発展が見えてくるようでおもしろいですね。

今日はこれで終わります。明日は、歴史学と解釈をめぐる話に入っていきます。

(写真は、富子の夫・足利義政の建てた銀閣です。)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/18(Thu) 21:30 No.363
人文学とは?歴史学とは?②

フワーリズミーです。
今日はまず、わたしが学生時代に学んでいた歴史学の話をします。

みなさんは歴史、についていったいどんなイメージをもたれているでしょうか?時代劇、大河ドラマ、寺社仏閣、いろいろの石碑…。とりわけ京都は史跡にあふれており、歴史の息吹をとりわけ身近に感じることができます。それらがまとう時間の厚みは、わたしたちの故郷に対するアイデンティティを強化します。自分はこのように歴史ある土地に生まれ育ったのだ、というように。
では、歴史「学」のほうには、どんなイメージをもたれているでしょうか。あなたが想像する歴史学者はどんな姿をしているでしょうか。ほうじ茶色したボロボロの古文書を前に、消えかけた崩し字を虫眼鏡かたてに穴が開くほど見つめているでしょうか。それとも、ノミとトンカチを携えてくぼ地に埋もれこんでは、土器のかけらやら木片やらを熱心に集めているでしょうか。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/17(Wed) 21:22 No.358
人文学とは?歴史学とは?②
しかしながら、歴史学者がその真価を問われるのは、そうして見つけた古文書やら土器を用いてどういう歴史を描くか、というところにあります。たしかにそういう資史料は大事なわけですが、そのままでは決して歴史にはなりません。それらがどういう史料で、その史料から何が分かるか、を分析するのはまぎれもなく歴史学者の領分に属するのです。
料理に例えるならば、歴史学者は料理人で、史料は材料です。いま手許にどういう材料があるか、それらを使ってどういう料理を仕上げることができるか、どう盛り付ければおいしく見えるか。これは材料の力もさることながら、それを料理する人間の力がもっとも問われてくることになります。
それゆえ歴史学の世界では、しばしば「過程」を重視します。どういう史料を使って、どういう結論が導き出されたかも重要なんですが、それよりも「どういう過程を経て」その結論に至ったかが問題になってきます。歴史学者は、どのように考えてその歴史を書いたか、ということですね。

(写真は府大歴彩館にある東寺百合文書の一つ、織田信長禁制です)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/17(Wed) 21:26 No.359
人文学とは?歴史学とは?②
結論とそこに至る過程。うーん、すこし難しいですね。

ひとつ歴史学の世界から例えを引っぱって来ることにしましょう。日野富子。あの銀閣を建てた将軍・足利義政の正妻です。富子といえば、高利貸しで巨利をむさぼり、我が子を将軍につけようとして応仁の乱を引きおこし、夫が銀閣を建てるというのにびた一文出してやらなかった、というエピソードが伝わり、しばしばどうしようもない悪女として描かれます。この場合、「日野富子は悪女だった」というのは、結論になります。それに対し、富子が悪女であることを示すための手続き全般、これが過程です。なぜ、どういう点で富子は悪女なのか。「高利貸しで巨利をむさぼった」というのは本当か。このとき史料がモノをいうわけです。たとえば、富子の設定した貸金の利息がほかの人のそれよりも高い、という史料が見つかれば立証に使えそうです。あるいは富子個人の収支報告が現存していて、それに占める高利貸し収入が同時代人と比べても高いようだ、と分かればやはり自説を強力に根拠づけることができます。

反対に、「じつは日野富子は従来言われているよりも悪女ではなかった」としましょう。たとえば、富子が何に出費していたかを詳しく調べると、内裏(天皇のお住まい)を直すために相当額が用いられていたという史料が出てきたなら、これは「富子悪女説」への強力な反証材料になります。あるいは「富子悪女説」が依拠していた史料には、真実でない点が含まれていたと証し立てることができれば、やはり「富子悪女説」を崩すことができそうです。

このように、「どういう歴史を描くか」はその前に、しかるべき史料を持ってきてそれを料理するという段階が不可欠なのです。

(写真は日野富子像です)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/17(Wed) 21:29 No.360
人文学とは?歴史学とは?②
さて、勘の鋭いかたは思われたかもしれません。じゃあ、歴史学の議論というのはつまるところ、解釈のぶつけ合いなのではないか、と。たぶん偽造されていないであろうしかるべき史料を見つけて、それを解釈して、より大勢から納得される歴史を描こうとする、そうした営みが歴史学なのではないか、と。解釈と歴史的真実。わたしの話も中盤に移ります。今日はここまで、また明日。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/17(Wed) 21:30 No.361
人文学とは?歴史学とは?①

みなさん、こんにちは。フワーリズミーという名前で書きこませていただきます。
わたしは史学科、いまでいう歴史学科に所属していました。それで少し「歴史学ってどういう勉強をする学問なのか」ということを書いて、投稿させてもらおうと思います。そうしてみなさんに少しでも「歴史学」というものへの理解を深めてもらえたらな、と願っています。

user.png フワーリズミー time.png 2021/03/16(Tue) 23:15 No.353
人文学とは?歴史学とは?①
投稿のきっかけは2つあります。
1つは去年話題になった、日本学術会議の会員候補が任命拒否されたことです。ふつう会員は210人いて、任期は6年。3年ごとに半数105人が改選されます。ちょうど参議院を思い浮かべてもらえばいいでしょう。ただし今年は、その105人のうち、6人の任命が拒否されました。学術会議が推薦した105人は今までなら全員がそのまま任命されていたわけで、去年のようなことは初めてだったようです。
しかも任命されなかった6人はいずれも法学者とか政治学者、歴史学者といった、いわゆる「文系」の研究者でした。どうして彼らは学術会議に入れてもらえなかったか、首相が理由を語らないものですから、何をいっても詮索の域を出ないわけですけど、「文系」とか「人文学」が隅に追いやられる風潮を背景にもつことはまず間違いないといえるでしょう。
(さかのぼれば国立大学法人化の議論(2003年)に行き着きますが、分かりやすい例としては2013年に政府が出した「国立大学改革プラン」が挙げられるでしょう。あのプランは「大学教育も、産業界の要請に応じて職業教育を充実させる方向にシフトさせる必要がある」という趣旨でしたが、2015年に文科省から出された決定に「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という文言があったため、さては文系学部廃止か定員減かという騒ぎになったのです。)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/16(Tue) 23:17 No.354
人文学とは?歴史学とは?①
もう1つのきっかけは、去年9月に岩波新書からでた『暴君-シェイクスピアの政治学』(グリーンブラット著、河合祥一郎訳)の謝辞にあります(この本はドイツのメルケル首相も読んでいたことで話題になりました)。いわく、ハーヴァード大教授の著者グリーンブラットはアメリカ大統領選の結果について心配していました。ひょっとしたらトランプが勝利するのではないか、と。原著が出されたのは2016年ですから、この大統領選はトランプさんとクリントンさんのほうですね。それで、著者の友人は「何か書けばいい」とアドバイスしたそうです。間もなく選挙が「最悪の予想どおり(p.248)」になってから、トランプ批判の意味を込めて書かれたのがこの本、ということです。いま日本の人文学を取り巻く環境が厳しくなっていることはたしかなのだと思いますし、わたし自身も憂慮するところです。でも憂慮するだけでは何も変わらない。それゆえ、グリーンブラットにならってわたしも何か書いてみようと考えたわけです。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/16(Tue) 23:18 No.355
人文学とは?歴史学とは?①
しかし、研究者でもなければ歴史に携わる仕事をしているわけでもないわたしに何が書けるのでしょうか。わたしは、決して読み手のみなさんに何か啓蒙できるほどの専門的な知識をもっているわけではありません。ですから、ここでわたしがもろもろの政治的問題に対する自分の意見をみなさんに披露しようというのではありません(そんなことはわたしの手に余ります)。それよりも、まず人文学とか歴史学がいったいどういう学問なのか。それを勉強したらどういう力がつくのか。何の役に立つのか。こういったことを知っていただけたらなと思います。
とはいえ、そこそこ長くはなるでしょうから、投稿は何日かに分けて行うことにします。おそらくは読まれたみなさんから色々な意見が出てくるだろうと思います。「なるほど、この人の言うことはもっともだ」と納得される方もあれば、「自分はそうは思わない」と批判の出る方もあるでしょう。しかし、それこそがわたしの大きな目的でもあります。人文学や歴史学はどういう学問で、それはいまどういう位置づけの下に理解されているか、メディアや権力からどう語られているか、それをどう受け取り、どのような意見をもつか。こういったことについて、おひとりおひとりが考えること、これこそが人文学、または学問全体にとって重要なのだと思います。
(写真は、歴史をつかさどる女神「クリオ」です)
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/16(Tue) 23:20 No.356
人文学とは?歴史学とは?①
なお、わたしが誰かということはあえて明言しないでおきます。というのも、書き手を名乗ることは実は一長一短というか、メリットとともに相応のデメリットも含んでいると考えるからです。かりに、これを書いているのが東大の教授だったとしましょう。タイトルのすぐあとの行に、東京大学のナンノナニベエと書いてある。そうすると読み手はかならずやそれを東大のエライ先生が書いたものだと身構えるはずです。すると、書かれた内容までが何やらエライもののように感じられて、一種の権力みたいなものをもってしまう可能性があると思うのです。わたしはそのように立派な身分ではありませんが、書かれたものを何のバイアスなく、等身大で受け取ってもらうためにも、あえて「フワーリズミー」という仮面をかぶることにします。ただし、書いたことに責任をもつために、典拠は折々に示していきますし、質問や感想があれば(超短メッセージにでも)それにもお答えしていきます。
とはいえ、合唱団にあったときも目立つ役職についていたわけではなく、合一会のイベントもあまり顔を出していませんから、近い先輩後輩を除いてわたしをご存じのかたはほとんどいらっしゃらないと思いますが。
今日はここまでです。続きはまた、明日。
user_com.png フワーリズミー time.png 2021/03/16(Tue) 23:21 No.357
折紙作品その3

季節が前後しますが、3月の作品です。

user.png yukiji time.png 2021/02/15(Mon) 14:54 No.334
Re: 折紙作品その3
五人囃子も三人官女も、細かなところまで作られててビックリ!
user_com.png D24 Yatchan time.png 2021/02/15(Mon) 16:06 No.340
おひな祭り
本日は令和3年3月3日♪
せっかくなのでyukijiさんのすてきなお雛様にお出ましいただきますね。
かわいらしくて、とってもよくできていて改めてほっこりにっこり♪

SUMIさんの大阪城と梅と目白の絵はがきを超える美しいお写真にも 並んでいただきたいです。
ありがとうございます。
もう、春ですね。
user_com.png 虫めづる姫 time.png 2021/03/03(Wed) 10:01 No.352
ついでにバレンタインの折紙作品

 昨日は、バレンタインデーでしたが、女性が男性にチョコレートを贈るのは日本だけだそうですね。
 我が家では娘がフレンチレストランのガトーショコラを買って来て家族みんなで食べました。
 皆さんのお宅ではどうでしたか?

user.png yukiji time.png 2021/02/15(Mon) 18:24 No.343
Re: バレンタインの折紙作品
まあ! メチャ可愛い~
user_com.png D24 Yatchan time.png 2021/02/15(Mon) 19:31 No.344
Re: ついでに
 お褒めいただき、ありがとう!
他にも、こんなの作りました〜✌️
user_com.png yukiji time.png 2021/02/15(Mon) 19:37 No.345
Re: ついでに
こんなのも🥰
user_com.png yukiji time.png 2021/02/15(Mon) 19:42 No.346
Re: バレンタインの折紙作品
底知れぬエネルギー!!!!
四角い折り紙がハートや丸に作るのは難しそう~
user_com.png D24 Yatchan time.png 2021/02/15(Mon) 20:42 No.347
折紙作品いいね
「ゆきぢ」ちゃん元気に頑張っていますねぇ。折り紙に触発されて23日に大阪城に行ってきました。遠出ができないので近くに梅見です。
user_com.png SUMI time.png 2021/02/28(Sun) 14:17 No.348
小鳥も来ていました
メジロのような小鳥が大勢いました。次は桜が待ちどおしいですね。
user_com.png SUMI time.png 2021/02/28(Sun) 14:22 No.350
梅とお城
sumiさん!

梅、見事ですねー!
この写真を見てすぐ
「桜と城と暴れん坊将軍!」
という画像が頭の中に浮かんできてなんだかホッコリしましたー
user_com.png D24 Yatchan time.png 2021/03/02(Tue) 20:10 No.351

- JoyfulNote -