土曜に何か書く8
忠臣蔵のお話 第3回目です。今回は忠臣蔵に関する当時の歴史文書現代語訳を引用しての説明です。当時の生の証言をお読みいただけます。
5.殿中での刃傷事件の真実
≪殿中刃傷事件の目撃証言≫
刃傷事件が起こったのは勅使が江戸城へやってくる直前のことでした。実は浅野 内匠頭(タクミノカミ)が吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけた時にその場にいた梶川与惣兵衛という旗本が残した『梶川日記』に事の顛末がちゃんと書かれています。
ウィキペディアにも載っており【註1】、その口語訳された梶川日記の該当部分コピーは下図の通りです。ここに書かれた証言と忠臣蔵の脚本とを比べてみましょう。
# 梶川日記では赤アンダーラインのとおり、梶川と吉良が立ち話していると突然浅野が後ろから吉良に斬りつけてきたというものです。
# ところが忠臣蔵の芝居では吉良から散々罵倒された浅野がカッとなって吉良を呼び止め振り返った吉良に正面から斬り付けています。目撃された事実と全く異なっております。
# それに梶川日記以外でもこの日この場面までは二人の間でトラブルが起こったことを見たという証人は誰もいなかった。とにかく忠臣蔵の芝居とは異なり浅野が何の前触れもなく突然に吉良に後ろから斬りつけたのが証言された事実です。
【註1】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E7%85%A7 『刃傷事件に関する記述』
5.殿中での刃傷事件の真実
≪殿中刃傷事件の目撃証言≫
刃傷事件が起こったのは勅使が江戸城へやってくる直前のことでした。実は浅野 内匠頭(タクミノカミ)が吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけた時にその場にいた梶川与惣兵衛という旗本が残した『梶川日記』に事の顛末がちゃんと書かれています。
ウィキペディアにも載っており【註1】、その口語訳された梶川日記の該当部分コピーは下図の通りです。ここに書かれた証言と忠臣蔵の脚本とを比べてみましょう。
# 梶川日記では赤アンダーラインのとおり、梶川と吉良が立ち話していると突然浅野が後ろから吉良に斬りつけてきたというものです。
# ところが忠臣蔵の芝居では吉良から散々罵倒された浅野がカッとなって吉良を呼び止め振り返った吉良に正面から斬り付けています。目撃された事実と全く異なっております。
# それに梶川日記以外でもこの日この場面までは二人の間でトラブルが起こったことを見たという証人は誰もいなかった。とにかく忠臣蔵の芝居とは異なり浅野が何の前触れもなく突然に吉良に後ろから斬りつけたのが証言された事実です。
【註1】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E7%85%A7 『刃傷事件に関する記述』
C’77卒石田(事務局長) 2022/01/29(Sat) 07:30 No.459
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土曜に何か書く8
≪ 『浅野内匠頭家来口上書』 に書かれていること≫
『浅野内匠頭家来口上書』 とは忠臣蔵の芝居で大石内蔵助(クラノスケ)ら赤穂浪士が吉良邸討ち入りの際、竹に挟んで門前に突き立てた 「アレ」 である。これもインターネットで調べられ【註2】、その口語訳のコピーは下図の通りです。
ちなみにこの口上書はひょっとして自分たちが返り討ちにあって全滅したときのために、ちゃんと自分たちの思いを伝えておこうとして書いたものである。
# 下図の朱線部分を見てください 「吉良上野介殿へ意趣(恨み)を持ち、殿中においてその場で避けがたい思いがございましたのか」 と疑問形で書かれている。すなわち 「当日何かガマン出来ないことがあったのだろうか?」 と大石ら自身も何がきっかけで刃傷事件を起こしたのか知らなかったのです。
# ついでに書きますが青線を引いたところには 「この喧嘩」 とあります。しかし吉良はただ一方的に斬りつけられ反撃もしていない。それで全く 「喧嘩」 などと呼べるものではない。浅野による殺人未遂事件の吉良は一方的な被害者です。喧嘩というのは赤穂浪士側の勝手な言い分。
# もう一つついでに書きますと、黒線の部分 「ただひとへに亡主の意趣(恨み)を継ぐ志だけでございます」 と書いてあります。これは 「亡き主君の恨みを継いで、主君の殺し損ねた吉良を家臣の我々が討取りたい」ということ。
# 以上をまとめますと「どういう理由で主君浅野が吉良を恨んだのかは知らないが、とにかく主君が吉良を殺しそこねたのだから、家臣の我々が主君の遺志を継いで吉良を殺す」というものです。
この大石をリーダーとする赤穂浪士の論理ですが、かなり不条理ですね。どういった理由が分からないが主君が吉良を殺そうとして出来なかったので、家臣の我々が亡き主君の遺志を継いで吉良を殺すというものです。ちょっと賛同できませんね。
【註2】浅野内匠頭家来口上書http://yamazakinomen.mizutadojo.com/asanotakumino.html
『浅野内匠頭家来口上書』 とは忠臣蔵の芝居で大石内蔵助(クラノスケ)ら赤穂浪士が吉良邸討ち入りの際、竹に挟んで門前に突き立てた 「アレ」 である。これもインターネットで調べられ【註2】、その口語訳のコピーは下図の通りです。
ちなみにこの口上書はひょっとして自分たちが返り討ちにあって全滅したときのために、ちゃんと自分たちの思いを伝えておこうとして書いたものである。
# 下図の朱線部分を見てください 「吉良上野介殿へ意趣(恨み)を持ち、殿中においてその場で避けがたい思いがございましたのか」 と疑問形で書かれている。すなわち 「当日何かガマン出来ないことがあったのだろうか?」 と大石ら自身も何がきっかけで刃傷事件を起こしたのか知らなかったのです。
# ついでに書きますが青線を引いたところには 「この喧嘩」 とあります。しかし吉良はただ一方的に斬りつけられ反撃もしていない。それで全く 「喧嘩」 などと呼べるものではない。浅野による殺人未遂事件の吉良は一方的な被害者です。喧嘩というのは赤穂浪士側の勝手な言い分。
# もう一つついでに書きますと、黒線の部分 「ただひとへに亡主の意趣(恨み)を継ぐ志だけでございます」 と書いてあります。これは 「亡き主君の恨みを継いで、主君の殺し損ねた吉良を家臣の我々が討取りたい」ということ。
# 以上をまとめますと「どういう理由で主君浅野が吉良を恨んだのかは知らないが、とにかく主君が吉良を殺しそこねたのだから、家臣の我々が主君の遺志を継いで吉良を殺す」というものです。
この大石をリーダーとする赤穂浪士の論理ですが、かなり不条理ですね。どういった理由が分からないが主君が吉良を殺そうとして出来なかったので、家臣の我々が亡き主君の遺志を継いで吉良を殺すというものです。ちょっと賛同できませんね。
【註2】浅野内匠頭家来口上書http://yamazakinomen.mizutadojo.com/asanotakumino.html
C’77卒石田(事務局長) 2022/01/29(Sat) 07:46 No.460
土曜に何か書く7
先週に引き続いて忠臣蔵の真相を探求するお話です。今回の話だけでも忠臣蔵脚本家が肝心なところで作り話をしているとご理解いただけます。
4.江戸城内での刃傷事件が起こるまでのストーリー
≪刃傷事件当時の浅野と吉良の役割≫
最初に事件当時の浅野 内匠頭(タクミノカミ)と吉良 上野介(コウズケノスケ)の役割を書いておきます。
#天皇が勅使を、将軍である徳川綱吉に派遣することになっており、その勅使接待の担当者が浅野で、接待総責任者が吉良とされた。
#すなわち吉良は浅野に手落ちがないように指導・監督する役目でした。特に今回は将軍綱吉が母へ朝廷から「従一位」という高位をもらえるように働きかけをしている最中だったので、“勅使の接待には絶対に不備があってはならない” という特別な事情がありました。
≪吉良によるイジメの数々≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めての接待役なので吉良に接待の方法について色々と教えを請います。しかし吉良は刃傷事件の日に至るまでに浅野に散々意地悪をしていた。内容は下記の通り
①勅使接待場の玄関に金屏風を飾るべきところ、吉良は墨絵屏風を飾るべきと教え浅野に恥をかかせた
②接待の料理に地味な精進料理を出すべきと吉良は浅野にウソを教えた。
③勅使が将軍家菩提寺の増上寺に参詣する時に畳替えをすべきなのに必要ないと指示した。
④勅使来訪当日の服装は最高級礼装(大紋)であるべきなのに略礼装(長裃)でいいと指示した。
言っておきますが、これらはみな作り話です。理由は下記の通りです。
≪常識的に考えてあり得ないストーリー≫
# 上記①~④はどれも天皇の使いである勅使に対して非常に失礼なことをすることになります。そのためひょっとして勅使が怒って京へ帰ってしまうことは当然考えられます。
# 勅使が怒って京へ帰ってしまうと、今回は特に大切な接待なので綱吉将軍は激怒するでしょう。そうなれば浅野だけでなく指導・監督役の吉良も「お前がついていながら何だ!」と責任を問われます。このような自分で自分の首を絞めるようなバカなことを吉良がするはずがありません。
≪実は浅野は接待役を以前やっていた≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めて接待役を受け持ったことになっているが、実際は17歳の時に同じ役を経験している。当然、接待の方法は浅野やその家臣が知らないはずがないのです。ですから吉良から聞かなくてもどの様にするかは知っていたはず。そもそも今回の勅使接待は絶対に落ち度があってはいけないので、接待役を初心者に任せるはずがなく、経験ある浅野が選ばれているのです。
それで上記①~④は全て吉良を悪人にして浅野を善良な被害者にするための作り話です。また浅野が殿中刃傷事件を起こしたもっともらしい理由としたいからです。
≪すべては浅野の刃傷事件を起こした理由付けのため≫
何故このような話をでっちあげるかと言えば、次回以降で述べますが現実には刃傷事件の原因となるような具体的な出来事を誰も知らなかったからです。殿中で刀を少し抜くだけで “お家断絶・切腹” になるのです。そんなムチャクチャ異常な行動を起こした原因の説明のために忠臣蔵芝居の脚本家は苦心して色んな作り話をしました。
そもそも普通に考えて、浅野が自分と藩が破滅するような行いをするなんて一時的に精神異常を起こさない限りあり得ないわけです。しかしそれでは 「悪人は滅び、正義が勝つ」 という芝居のストーリーにならない。何としても浅野は正常であったが極悪人の吉良にいじめられてカッとなり刃傷に及んだことにしないと観客に喜んでもらえるストーリーにならないのです。
下図は雪の夜の吉良邸討入りを描いた浮世絵 『夜討之図』 歌川国芳
4.江戸城内での刃傷事件が起こるまでのストーリー
≪刃傷事件当時の浅野と吉良の役割≫
最初に事件当時の浅野 内匠頭(タクミノカミ)と吉良 上野介(コウズケノスケ)の役割を書いておきます。
#天皇が勅使を、将軍である徳川綱吉に派遣することになっており、その勅使接待の担当者が浅野で、接待総責任者が吉良とされた。
#すなわち吉良は浅野に手落ちがないように指導・監督する役目でした。特に今回は将軍綱吉が母へ朝廷から「従一位」という高位をもらえるように働きかけをしている最中だったので、“勅使の接待には絶対に不備があってはならない” という特別な事情がありました。
≪吉良によるイジメの数々≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めての接待役なので吉良に接待の方法について色々と教えを請います。しかし吉良は刃傷事件の日に至るまでに浅野に散々意地悪をしていた。内容は下記の通り
①勅使接待場の玄関に金屏風を飾るべきところ、吉良は墨絵屏風を飾るべきと教え浅野に恥をかかせた
②接待の料理に地味な精進料理を出すべきと吉良は浅野にウソを教えた。
③勅使が将軍家菩提寺の増上寺に参詣する時に畳替えをすべきなのに必要ないと指示した。
④勅使来訪当日の服装は最高級礼装(大紋)であるべきなのに略礼装(長裃)でいいと指示した。
言っておきますが、これらはみな作り話です。理由は下記の通りです。
≪常識的に考えてあり得ないストーリー≫
# 上記①~④はどれも天皇の使いである勅使に対して非常に失礼なことをすることになります。そのためひょっとして勅使が怒って京へ帰ってしまうことは当然考えられます。
# 勅使が怒って京へ帰ってしまうと、今回は特に大切な接待なので綱吉将軍は激怒するでしょう。そうなれば浅野だけでなく指導・監督役の吉良も「お前がついていながら何だ!」と責任を問われます。このような自分で自分の首を絞めるようなバカなことを吉良がするはずがありません。
≪実は浅野は接待役を以前やっていた≫
忠臣蔵の脚本では浅野は初めて接待役を受け持ったことになっているが、実際は17歳の時に同じ役を経験している。当然、接待の方法は浅野やその家臣が知らないはずがないのです。ですから吉良から聞かなくてもどの様にするかは知っていたはず。そもそも今回の勅使接待は絶対に落ち度があってはいけないので、接待役を初心者に任せるはずがなく、経験ある浅野が選ばれているのです。
それで上記①~④は全て吉良を悪人にして浅野を善良な被害者にするための作り話です。また浅野が殿中刃傷事件を起こしたもっともらしい理由としたいからです。
≪すべては浅野の刃傷事件を起こした理由付けのため≫
何故このような話をでっちあげるかと言えば、次回以降で述べますが現実には刃傷事件の原因となるような具体的な出来事を誰も知らなかったからです。殿中で刀を少し抜くだけで “お家断絶・切腹” になるのです。そんなムチャクチャ異常な行動を起こした原因の説明のために忠臣蔵芝居の脚本家は苦心して色んな作り話をしました。
そもそも普通に考えて、浅野が自分と藩が破滅するような行いをするなんて一時的に精神異常を起こさない限りあり得ないわけです。しかしそれでは 「悪人は滅び、正義が勝つ」 という芝居のストーリーにならない。何としても浅野は正常であったが極悪人の吉良にいじめられてカッとなり刃傷に及んだことにしないと観客に喜んでもらえるストーリーにならないのです。
下図は雪の夜の吉良邸討入りを描いた浮世絵 『夜討之図』 歌川国芳
C’77卒石田(事務局長) 2022/01/22(Sat) 06:39 No.458
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土曜に何か書く6
1.忠臣蔵の真相についてお話します
私が小中学校生だった50~60年ほど前の時代でしたら年末年始のTV番組ではよく忠臣蔵が放送されていました。それは忠臣蔵クライマックスの赤穂浪士吉良邸討入りが旧暦で12月14日、新暦で言えば1月末であり時期的に近いことによるためでしょう。
昭和時代までの日本では人気のあった忠臣蔵の物語は下記の赤穂事件をもとに創作されたものです。そのため忠臣蔵のストーリーには史実とは異なる作り話が沢山あります。実際にはまさかと思うような根本的なところでフィクションがあるのです。なかなか意外性があって面白いので数回にわたってお話いたします。暇な方にはお読みいただいたら雑学にはなると思います。ちなみにタネ本は井沢元彦著『逆説の日本史14 文治政治と忠臣蔵の謎』(2011年小学館文庫)です。
下図は葛飾北斎作の 『仮名手本忠臣蔵』 十一段目 吉良邸討入りの浮世絵
私が小中学校生だった50~60年ほど前の時代でしたら年末年始のTV番組ではよく忠臣蔵が放送されていました。それは忠臣蔵クライマックスの赤穂浪士吉良邸討入りが旧暦で12月14日、新暦で言えば1月末であり時期的に近いことによるためでしょう。
昭和時代までの日本では人気のあった忠臣蔵の物語は下記の赤穂事件をもとに創作されたものです。そのため忠臣蔵のストーリーには史実とは異なる作り話が沢山あります。実際にはまさかと思うような根本的なところでフィクションがあるのです。なかなか意外性があって面白いので数回にわたってお話いたします。暇な方にはお読みいただいたら雑学にはなると思います。ちなみにタネ本は井沢元彦著『逆説の日本史14 文治政治と忠臣蔵の謎』(2011年小学館文庫)です。
下図は葛飾北斎作の 『仮名手本忠臣蔵』 十一段目 吉良邸討入りの浮世絵
C’77卒石田(事務局長) 2022/01/15(Sat) 08:20 No.456
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土曜に何か書く6
2.忠臣蔵の元となった赤穂事件とは
関連して起こった江戸時代の下記の二つの事件を指している。
◎ 殿中刃傷事件
元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩主の浅野 内匠頭(タクミノカミ)が殿中すなわち江戸城内で吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけたため切腹・御家断絶となった事件。
◎ 赤穂浪士吉良邸討ち入り事件
翌元禄15年12月14日夜から翌日にかけて、赤穂藩の主席家老だった大石 内蔵助(クラノスケ)をリーダーとする赤穂藩浪人47人が吉良邸を襲撃し、上野介を討取ったという事件。
3.忠臣蔵という題名になった理由
≪蔵の話ではないのになぜこの題名≫
私は小さいころ 『忠臣蔵』 という題名の意味が解らなかった。題名に「蔵」がつくので物語に蔵が出てくるかと思えば全然そんなことはないので 「なんでだろう?」 と常に思っていた。その理由は下記の通りだったのです。
≪江戸時代の芝居には規制があったので≫
忠臣蔵とはもともと人形浄瑠璃のタイトルであって、1748年初演 『仮名手本忠臣蔵』に由来している。
江戸時代は現実の事件をそのまま扱った芝居の上演は許されていなかった。そのため忠臣蔵の元となる赤穂事件を扱った芝居を上演しようと思っても吉良上野介や大石 内蔵助(クラノスケ)という名前を出せなかった。
それで脚本家はこれを室町時代の 『太平記』 の世界に置き換えた。ただし観客には赤穂事件のことと分かるように、下記のような色んなヒントとなる言葉をちりばめた。
# 登場人物名では吉良上野介や浅野内匠頭は 『太平記』 の登場人物名にならざるを得なかったが、大石内蔵助については大星由良之助(オオボシ ユラノスケ)で妻の名は 「お石」 とした。これで夫婦合わせて大石となる。
下図は幕末の頃に作られた忠臣蔵の浮世絵です。江戸時代であるので大星由良之助となっているが大石内蔵助のこと。吉良邸討ち入りの陣太鼓を打ち鳴らしている。
# 人形浄瑠璃題名 『仮名手本忠臣蔵』 の 「仮名手本」 とは 「いろは四十七文字 」 のことで赤穂浪士四十七士を暗示している。
# 『忠臣蔵』 とはその通り解釈すれば 「忠臣」 が 「蔵」 一杯つまったような芝居という意味であるが、この題名でリーダーの大石内蔵助を連想してもらおうとしている。
このようにして脚本家は 「この物語は本当は例の赤穂事件の話ですよ」 ということを観客に分かってもらおうとしている。
そして明治になってからは忠臣蔵の芝居が今のように浅野内匠頭とか大石内蔵助という実名を使って上演できるようになったが、題名の 『忠臣蔵』 は今さら変えるわけにいかなかったのでしょうそのまま現在に至るまで使われ続けています。
ちなみに私が 『忠臣蔵』 より前に 『〇〇蔵』 という名前の江戸時代の文芸作品がないか調べてみたら一つだけありました。井原西鶴作の浮世草子 『日本永代蔵』 (にっぽんえいたいぐら1688年)。この書名を真似たのかなと、ド素人の判断ですが思っております。
関連して起こった江戸時代の下記の二つの事件を指している。
◎ 殿中刃傷事件
元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩主の浅野 内匠頭(タクミノカミ)が殿中すなわち江戸城内で吉良 上野介(コウズケノスケ)に斬りつけたため切腹・御家断絶となった事件。
◎ 赤穂浪士吉良邸討ち入り事件
翌元禄15年12月14日夜から翌日にかけて、赤穂藩の主席家老だった大石 内蔵助(クラノスケ)をリーダーとする赤穂藩浪人47人が吉良邸を襲撃し、上野介を討取ったという事件。
3.忠臣蔵という題名になった理由
≪蔵の話ではないのになぜこの題名≫
私は小さいころ 『忠臣蔵』 という題名の意味が解らなかった。題名に「蔵」がつくので物語に蔵が出てくるかと思えば全然そんなことはないので 「なんでだろう?」 と常に思っていた。その理由は下記の通りだったのです。
≪江戸時代の芝居には規制があったので≫
忠臣蔵とはもともと人形浄瑠璃のタイトルであって、1748年初演 『仮名手本忠臣蔵』に由来している。
江戸時代は現実の事件をそのまま扱った芝居の上演は許されていなかった。そのため忠臣蔵の元となる赤穂事件を扱った芝居を上演しようと思っても吉良上野介や大石 内蔵助(クラノスケ)という名前を出せなかった。
それで脚本家はこれを室町時代の 『太平記』 の世界に置き換えた。ただし観客には赤穂事件のことと分かるように、下記のような色んなヒントとなる言葉をちりばめた。
# 登場人物名では吉良上野介や浅野内匠頭は 『太平記』 の登場人物名にならざるを得なかったが、大石内蔵助については大星由良之助(オオボシ ユラノスケ)で妻の名は 「お石」 とした。これで夫婦合わせて大石となる。
下図は幕末の頃に作られた忠臣蔵の浮世絵です。江戸時代であるので大星由良之助となっているが大石内蔵助のこと。吉良邸討ち入りの陣太鼓を打ち鳴らしている。
# 人形浄瑠璃題名 『仮名手本忠臣蔵』 の 「仮名手本」 とは 「いろは四十七文字 」 のことで赤穂浪士四十七士を暗示している。
# 『忠臣蔵』 とはその通り解釈すれば 「忠臣」 が 「蔵」 一杯つまったような芝居という意味であるが、この題名でリーダーの大石内蔵助を連想してもらおうとしている。
このようにして脚本家は 「この物語は本当は例の赤穂事件の話ですよ」 ということを観客に分かってもらおうとしている。
そして明治になってからは忠臣蔵の芝居が今のように浅野内匠頭とか大石内蔵助という実名を使って上演できるようになったが、題名の 『忠臣蔵』 は今さら変えるわけにいかなかったのでしょうそのまま現在に至るまで使われ続けています。
ちなみに私が 『忠臣蔵』 より前に 『〇〇蔵』 という名前の江戸時代の文芸作品がないか調べてみたら一つだけありました。井原西鶴作の浮世草子 『日本永代蔵』 (にっぽんえいたいぐら1688年)。この書名を真似たのかなと、ド素人の判断ですが思っております。
C’77卒石田(事務局長) 2022/01/15(Sat) 08:23 No.457